【業界騒然!今村豊・引退】その衝撃的な引退理由とは…

 

2020年10月09日 公開

 

10月8日、ボートレース業界に激震が走った。

「今村豊、引退」

今村豊といえば「艇界のプリンス」「ミスター競艇」「レジェンド」と称される競艇に愛された男だが、また1人、2000番台の選手が水面を去ることとなった。

今回はそんな今村豊の引退会見を振り返りつつ、引退理由などにも踏み込んで触れていく。

 

突然行われた今村豊の引退会見

10月8日午後1時45分に衝撃が走った。

JLCの公式Twitterなどで「緊急引退記者会見」の文字。SIX WAVE六本木(ボートレース振興会の本社ビル)にて14時よりその会見は始まった。

内容はそのタイトルの通り、今村豊選手(2992)が緊急記者会見で引退を発表するというものだった。1981年に選手登録され39年5ヶ月の現役生活にピリオドを打った。

 

今村豊 プロフィール

1961年生まれの59歳。デビューは1981年5月。初出走で初勝利。その節でいきなり優出と非凡なレースセンスを披露。

2期目の末に蒲郡で初優勝。3期目の1982年7月の丸亀周年でG1初優勝。また10月の全日本選手権(ダービー)ではSG初優出した。1984年の笹川賞(オールスター)では登場最年少かつデビュー3年目という最速記録でのSG初制覇と驚異的な成績を残している。

ダービー優勝3回は当時最多の大記録を持っている。(現在、瓜生正義選手と並び最多タイ記録。)デビュー期を除き引退までA級であり続けた。SG·7勝、G1·48勝含む優勝回数は142回。通算1着は2880回。

今村豊という男を振り返る

全速ターンの先駆者

今村豊という男は、「今村以前と以後では競艇が変わった」と言われるほどのボートレースに革命を及ぼした選手だ。現在では当たり前のようにスピードを落とすことなく旋回し艇間をつく技が見られる。しかし当時はしっかりスピードを落とし旋回し、直線にまたスピードを上げるといったレース。出力低減モーターでも現在のようなスピード感溢れるレースは今村豊がパイオニアともフロンティアとも言えるだろう。

常にスローでの進入

今村豊選手の特徴として常にスロー域からの進入という事が挙げられる。モーターが出力低減のものになるなどによって、ダッシュからでは確かな質のスタートをすることが出来ない。スリット付近でレバーを放るとファンの方をガッカリさせてしまう。それならば自分が確かに分かる位置からのレースをしようと思ったことが常にスローという答えであった。やはり今村豊という男、いぶし銀である。

このスタイルで衝撃を受けた個人的名レースといえば2018年 福岡で行われたマスターズチャンピオンのドリーム戦

 

出走メンバーは

1 吉川元浩
2 田中信一郎
3 前本泰和
4 松井繁
5 江口晃生
6 今村豊

の6名。5枠の江口晃生選手が前づけに動くも、今村豊選手は自分のスタイルを貫き6コースのスロー150m起こしを選択。内側4艇が前づけに全員抵抗し今村豊選手を除く5人は100mを切るような進入だった。

結果、全速でスタートした今村豊選手はスリット後に伸び、鮮やかな6コースまくりで勝利している。

メニエール病の発症

目まいの発作が出た際に欠場となってしまい関係者には迷惑がかかるためには1度引退を考えたことがある。それでももう少し頑張ってみようと続けていった。その後改善し約40年間の現役生活と務めることができた。

誰にも負けない練習量

会見でも練習量は誰にも負けない自負はあると語った今村豊。訓練生では転覆王とも言われるほど常に全速ターンを目指していた。弟子にもその指導は引き継ぎ、持ちペラ制であった時代には「プロペラは俺がやる。休む暇があったら水面に出ろ。」と指導していた。

10年前に放送されたJLCの番組ではモンスター野中和夫とのこんなエピソードも。当時レース間練習では8艘までとされていた時代。今村豊は常に練習に水面へと出ていた。陸に上がることを嫌った今村豊は燃料補給すら周囲の動きを見て、引き上げることのないタイミングで補給をしていたことも。そのため野中選手に「いつまで走ってるんだ」と水面上で怒られたのが初めての会話だったと話している。

弟子への指導

先ほどと同じくJLCの番組で、弟子への指導法が私たちにも考えさせられる内容となっている。

1. まずは見て覚える
→とにかく何度も見て自分で理解をさせて覚えさせる。口で言った事は覚えた気になるが覚えていない。見て理解したことでそれを実行できるようになることが本当にわかったということ。

2. 何でも日本一に
→物を大事にする、掃除をする。それだけでもトップになることが自信にも繋がるし、他のことにも役立っていく。

3. 負けたとしたら認めて次に進む
→負けたことを悔しがることはあるが引きずらないで欲しい。次にその失敗をどう生かすかが重要。

 

この3つが非常に印象的だ。これはボートレースに限らず、仕事や学業、どんな面にでも言える考えである。あなたもこういった今村イズムを継承していくのはどうであろう。

 

引退会見の内容

冒頭には各方面への感謝の意

ボートレース振興会、モーターボート競走会、選手会への御礼。マスコミ、報道関係への御礼。ファンへの御礼と3回に渡って礼をするところから始まった。これも今村豊選手の人柄の良さを表しているだろう。

引退のタイミング

11月の最低体重引き上げを前にして、下関のメモリアルで引退を考えていた。しかしダイヤモンドカップの斡旋が入り、デビューした徳山で始まり、同じ徳山のG1で引退することを決め、10月8日の引退会見となった。

現役選手からのビデオメッセージ

平和島周年を戦っている瓜生正義、寺田祥、弟子である白井英治からのメッセージが流された。中でも白井英治は「ここまで育ててくれてありがとうございました。寂しいし悲しいけれど賞金王になることを最高の恩返しとして日々精進していきたい。今村豊ファンの方も今後は僕(白井選手)がそばで見守るので安心してください。師匠、愛してます。」と深い師弟愛を示した。

この白井の言葉で救われた今村豊ファンも多いだろう。

ラストランまでの日々

引退をはっきり考えてからは、今村豊選手ほどの方でも「いまさらケガをしたら…」と恐怖心もあり、ラストランも「ファンの方には申し訳ないけど、正常なスタート、正常なゴールを残したかった」と語った。

貫き通したこと

「人にぶつかっていかないレース形態」を貫き通していたと語っている。不良航法よる減点が-10となり、無理なレースが減ってはいるものの、やはり荒いレースというものは勝負事なだけにつきものである。そのあたり自分のレースをとことん追求していくことや礼儀正しい今村豊選手の人柄が現れた言葉であった。

悔いはない

「やり残したことあったら多分辞めてないと思います。本当に満足感でいっぱいです」

引退自体はさみしいものであるものの、本人が悔いなくやりきったというのが競艇ファンとしても何よりも嬉しい。

「悔いがあったら辞めていない」、「賞金王は獲れるなら獲りたかったが、これも今村豊の人生。全て獲ってたら面白くなくなる。」「白井英治が獲ると言ってるから、私の夢を英治に繋いだ」と弟子への想いも語った。

「私の人生そのものです」

記者からの質疑応答で「今村選手にとってボートレースとは?」との質問に即答。高卒後から60歳(かつての定年)まで選手としていただけに「ボートに始まってボートに終わった」と話している。

今後のボートレースへの期待

ファンの方が当たるか否かではなく、見ているだけで「ボートレースって面白いよね」と思われるレースをして欲しい。現状(コロナ禍)が収まったら本場で楽しんで欲しい。と答えた。

人柄のよさが最も出たと言えるシーン

質疑応答中には、某記者のお願い(社名不明)で「今までのインタビューや雑誌を集めたライブラリを作ろうと思っている。原稿料を払えないが作ってよろしいですか。」との発言。無礼ともいえる突然の内容であるにも関わらず、今村は「どうぞ作ってください。業界のためによろしくお願いします。」と笑顔を見せる神対応。この対応力も強さの秘訣であったのだろう。

ボートレース殿堂入り

会見の終盤ではボートレース振興会の報告事項として、引退したボートレーサーを対象とした「ボートレース殿堂」の第1号として内定したと発表も。こちらはボートレース振興会の選考委員会を経て正式決定となる予定と発表もされている。

 

挙げられる引退理由

「最低体重制限の引き上げ」

これが今村豊選手の引退の理由となるとは思いもよらなかったであろう。ではこの最低体重制限とはなにかの歴史から見ていきたい。

最低体重制限

かつてはボートレースに体重の制限はなかった。ターンレベルが今ほどではなかった時代、体重が軽く、速く走れる者が勝った時代があった。

最低体重制限を制定のきっかけとなったのは1987年の笹川賞。優勝したモンスターこと野中和夫は、表彰式で過度の減量から優勝カップを渡された際にも倒れそうになるほど弱っていた。このままでは選手の健康面が危ないと1989年には男子50kg、女子45kgの最低体重を設定。2001年には女子が47kg、2015年には男子51kgと改定されている。

そして2020年3月26日、日本モーターボート競走会は「令和2年11月1日以降を初日とする競走より、全競走を対象に男子選手の最低体重基準値を現行の51.0kgから52.0kgに引き上げます。」と発表。この最低体重に満たない選手は重り(オレンジ色のベスト)を身につけてレースに臨むことで最低体重に合うよう重量調整している。

なぜ今村豊選手は重量調整ではダメだったか

引退会見では最低体重が引き上げられたことを理由に自身の「限界を感じた」と語っていた今村豊選手。通常であれば最低体重が引き上げられるのなら食べたいものがより食べれるようになる。より充実した生活をという考えが自然である。

しかし、どれだけ食べても増えていかないという選手も中にはいるのだ。ではベストを着用し重さを合わせればいいという考えの方も多いであろう。しかしそこには選手側からした2つの問題点がある。これは当サイトの関係者でもある選手が実際に語っていたものだ

1. ベストはあくまでベスト。自分の体ではないから思うように動かない

→繊細なハンドルワークを必要とするだけに不用意なものは身につけたくないという気持ち

2. 暑い時期にはベストを着用することによって、より一層汗をかきやすくなりかえって減ってしまうことがある

→重量調整することによって減量してしまうという言わば悪循環に陥る

これらを避けるためにできる限り体重が重い選手も、体重が軽い選手も最低体重に合わせるようにしている。

会見では「以前から体重(の増量)で苦労していて「体重が変わったら(引き上げられたら)辞めるかもな」と元選手の奥さんに薄々は告げた」と語った。

質疑応答でも「食べたくないものを嫌々ながら食べることが苦痛」と話していた今村豊選手。それほどの悩みの1つであったとは会見で語られなくてはファンの我々は知ることがなかっただろう。

一見、食べるのが苦痛で引退、ということに「そんなことで…」と思う人もいるかもしれない。しかしこの苦悩は直面している本人にしかわからないことだろう。むしろ、これだけ真面目で真摯な男が、それを理由に引退までに追い込まれたということは、この『体重を増やさなくていけないという行為』がどれだけしんどいかを物語っている。今後、この問題は一つの指標になるかもしれない。

今村豊引退の衝撃的な理由はこれで皆が納得できるはずだ。

 

《まとめ》

いきなりの引退発表と今村豊選手ならではの苦悩した引退理由。非常に驚きが多かった1日であった。

会見では誰からも慕われる人格者であることを再確認できる場面も多く見られた。

後世にも語り継いでいきたい偉大な選手。そんな選手がまた1人水面を去ることとなった。

ありがとう。そしてお疲れ様でした。

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